お知らせ

新聞記事より抜粋


トールマンコレクション








長谷川雄一木版画展








学芸員見習島村勝巳からのメッセ―ジ


長谷川版画空間の開設以来学芸員見習として長谷川版画の研究をすべく、

  1. 長谷川雄一の年譜を作成する
  2. 全作品の画像リストを作成する
  3. ポートフォリオを作成する
  4. 長谷川さんの展覧会はすべて見る
  5. 恒例の最新作展を開催する

を計画して具体的に行動してきたが、近日中に完成しそうなものもあるが、なかなか進まない。 小生が好きな版画家は当然長谷川さんですが、そのほかには長谷川さんの師匠である斎藤清さんともう一人、昨年余市のワイナリーで知り合った及川さんから紹介された小樽で活躍された金子誠治さんです。

昨年の正月のホームページに記載しましたが、実はこの3人が小生にとっては何とも言えない共通点があります。

作品についてもですが、長谷川さんは会津若松の小学校の同級生であり、その先生である斎藤清さんと斎藤清さんが20歳前後に小樽で棟方志功、成田玉泉氏らと一緒に切磋琢磨した金子誠治さんであります。

昨年夏、小樽美術館で「小樽ゆかりの版画家5人が集う美術館特別展(木版の夢)」から金子さんの版画を見るようになりました。

この夏、毎年行っている札幌でのゴルフの合間に、及川さんと山吹さんに案内いただき、金子さんのギャラリーを訪問する機会を作っていただきました。

金子先生の奥様がご健在でお目にかかれ、斎藤清さんや棟方志功さんの話をお聞きし、両巨匠が急激に身近に感じたことが不思議でした。

金子先生の代表作「少年」の前で、長男でモデルとなった今整形外科の医師の一成さんと一緒に写真を撮りました。

平成29年8月8日(火)



帰りに、一成さんの奥様から金子先生の版画(小樽市街の冬景色)を頂き、大変うれしく東京に戻って早速額装して我が家の斎藤清さんの版画の前での写真がこれです。





学芸委員見習いの研究成果

作品面での共通点はこれから詳しく検証しようと思いますが概括でいうと

  1. 斎藤清氏のモダニズムの展開―その挫折と確信―に記載しましたが、「美術学校にも行かず、画家に師事することもなく、ただひとりで版画の道を進んできた斎藤清は自らの道程は自らで判断する以外はなかった」とあるように3人とも独自の版画の制作に取り組んだことである
  2. 3人とも多少の違いはあるものの、ほのぼのとした家族愛がにじみ出ていることである
  3. 3人とも北国で生まれ育ったせいか我慢強く、じっと耐える感じを強く感じること

作品面での独自性については

  1. 斎藤清さんには後述する「モダニズム」
  2. 金子誠治さんには小樽にたいする「郷愁」
  3. 長谷川さんについては「大気・宇宙観」

  4. を感じます。

今年中には長谷川さんの「作品リスト」と5〜6区分の時代ごとの「ポートフォリオ」を完成したいと思っています。

斎藤清 木版画モダニズム

1997年11月に斎藤清が90歳で亡くなって、没後20年となる。

その年は、4月の国画会展に新作木版画を発表し、6月に福島県立美術館で「斎藤清の全貌展」が開催され、10月には生まれ故郷の会津柳津に「斎藤清美術館」が開館するという年であった。

つまり、斎藤清は25歳で画家を志して以来、65年間、文字通り最後まで第一線で活躍した画家だったということである。

生前の斎藤清は、一言でいえば「もっとも作品が売れた」版画家であった。終戦後の1950年代から70年代には、GHQのアメリカ人を中心とした外国人たちの人気を呼び、70年代半ばからは国内でも人気作家となっていった。その「人気」がどれほどだったかというと、およそ千点を超す木版画作品の各エデッションがほとんど売れてしまっていることからも推測できる。

一方で、戦後に開かれた初めての国際美術展の第1回サンパウロ・ビエンナーレ(1951年)で洋画・日本画・彫刻をさしおき、銅版画の駒井哲郎とともに日本人で初めて国際展で受賞している。これにより、その後各国で開催される国際版画展(ビエンナーレ)での日本人作家の受賞オンパレードのさきがけとなっている。

斎藤清にとって最も不運であったことは、実は「作品が売れる人気作家」というこの「肩書」だったように思える。外国人に作品が売れれば「スーベニール作家」とねたまれ、国内で人気になれば大衆に受ける「郷愁の版画家」などと揶揄されるようになる。

それによって国内の公立美術館での評価も後手にまわるようになった。何せ相手は現役の売れっ子作家なので無理もないといえよう。ようやく1983年に神奈川県立近代美術館を皮切りに開催され、全国を巡回した「斎藤清展」がその最初であった。

この年、斎藤清76歳、木版画はもとより水墨画へも作域を広げ作品集なども次々出版され、絶頂期ともいえる時代であり、同時に日本の「現代版画」も絶頂期を迎えていたのである。

それから30数年たった今、ようやく、「斎藤清の版画」を客観的に見直す時代がやってきた。かつて絵師・彫師・摺師の三者分業による「浮世絵版画」に対抗して、自画・自刻・自摺という個人主体の表現を打ち出した「創作版画」、その中から西洋モダニズムのエッセンスを取り込んで、独自のスタイルを完成させて、続く「現代版画」の先駆けとなったのが斎藤清なのである。

本稿では、この「斎藤清のモダニズム」がどのように誕生し、なぜいち早く外国人に認められ、また国内でも大衆的なポピュラリティ―を獲得したかを検証し、「現代に生きる斎藤清」を紹介する。

「創作版画」から独学での木版画

斎藤清は、4歳で会津を離れ北海道に移住し、12歳で母を亡くし、小学校卒業後は徒弟修業などを経て職を替え、20歳に小樽で独立して看板店を持つまでになる。

しかし、「絵を描きたい」という思いは止みがたく、24歳で看板店を友人に譲り上京。そこから宣伝広告の仕事をしながら、画家の修業時代のスタートを切る。

油絵は独学でありながらも26歳から白日会展・東光会展・国画会展に次々と入選し、また安井曾太郎の木版画を見て、これも見よう見まねで第1作(少女)を製作し、日本版画協会展に入選する。だが4回目の国画会展に油絵・版画ともに落選し、新たに勉強し直す決意をする。

モダニズムの先駆け

戦後すぐの斎藤清の活躍は目覚ましいものがある。昭和22(1947)年に皇居前のGHQ(連合局総司令部)本部近くの岸本ビルにあった東和工芸ギャラリーで個展を開催し、アメリカ人を中心に作品が売れたことがきっかけであった。

しかし、その時に展示された作品は昭和17年に銀座・鳩居堂での版画個展に出品されたものであった。つまり、戦前に造型版画協会展を舞台に、独学で様々な技法を試みながら制作してきた斎藤清の木版画のオリジナリティをいち早く外国人が認めたものである。

敗戦間近の「創作版画」は、日本の美術界にあってほとんど消滅寸前であった。GHQの外国人たちは、日本人の油絵や日本画は西洋モダン・アートのローカルな模倣でしかなく、浮世絵版画の伝統を受け継ぐ「創作版画」にこそ、日本独自のアートを見出していた。もちろん既に浮世絵版画の名品は残っておらず、創作版画に目が向けられるが、その中で最もモダニズムの輝きを放つ斎藤清の木版画が脚光を浴びることになる。

外国人が企画したサロン・ド・プランタン展で斎藤清の(ミルク)が1等賞に輝き、続く戦後初の国際美術展となる第一回サンパウロ・ビエンナーレでは、絵画・彫刻を差し置き、駒井哲郎とともに版画部門で日本人初の受賞を果たし、「日本版画」を世界に知らしめる世界に先駆けとなった。

西洋モダンとの出会い

サンパウロ・ビエンナーレでの受賞後、斎藤清の「個展」が国内外で次々と開催されるようになる。特に海外での個展回数は、1950年代という時代を考えれば、版画のみならず日本の美術界でも異例の出来事であった。

1952年3月、サンフランシスコのアーミー・エデュケーションセンターでウイリアム・ハートネット所長コレクションにより開催。同年6月、ニューヨークのキャラヴァン画廊で開催。55年シアトル美術館で「斎藤清と彼の仲間たち展」開催。そしてついに、56年にはアメリカ国務省およびアジア文化財団の招待によりアメリカ・メキシコ訪問となる。

この年斎藤清49歳。すでにキヨシ・サイトーの名が知れ渡っていることに驚く。もはや何かを学ぶためではなく、ひたすらスケッチのための旅行だった。

さらに、57年ワシントン・コーコラン美術館ほかで個展開催。59年にはAIU損保創業者のコーネリアス・V・スター氏の招待で、フランス・パリにスケッチ旅行。62年ニューヨークのノードネス画廊で個展。64年ハワイ大学祭に招かれ、ホノルル美術館で個展開催。65年オーストラリアを訪問。シドニー、メルボルンで個展開催。帰途、タヒチを訪れる。

この流れは70年代にまで続き、極めつきは77年チェコスロバキア・プラハの国立美術館(キンスキー宮殿)での個展開催となる。この時代、海外でこれだけの実績を残した版画家(画家)は斎藤清以外にはいない。

モダニズムの展開 その挫折と確信

1960年代の斎藤清は海外での活動や展覧会も増え、その作品の人気も高まり、国内でも売れっ子作家となっていく。ようやく独自のスタイルも完成しかかった頃、突如として自己不振に陥る。今自分が作っている作品は本当に自分が作りたかった作品なのか、売れるから作っているだけの作品ではないのか、自問してスランプとなる。

それを救ったのは、国画会展に落選した若い頃に描いていたヌードクロッキーの蓄積だった。美術学校にも行かず、画家に師事することもなく、ただひとりで版画の道を進んできた斎藤清は自らの道程は自らで判断する以外はなかった。

そして、斎藤清の偉大さは、転機となった『ヌード(G)』以降どちらかといえば自己の内面を表現したような作品に戻っていくという方向ではなく、それまでに築き上げてきた世界に確信を深め、さらに次々と新たなテーマに取り組み、斎藤版画のスタイルを完成させていったことにある。

木版画モダニズムの完成

1970年、一時中断していた「会津の冬」シリーズを新たに1番から始め、没年1年前まで115点制作された。言うまでもなく「会津の冬」は斎藤清の代表的なシリーズであり、戦前を含め、それまでに20数展が作られていた。

そして、1980年代になると、次々と新たな連作が始められる。月と雲だけを描く「月雲」「浮遊」シリーズ、富士山に取り組んだ「霊峰」シリーズ、さらに以前からの「鎌倉」の新シリーズ、「稔の会津」「柿の会津「さつきの会津」など一連の会津シリーズである。

そして1987年、80歳の斎藤清は妻の健康状態もあり、鎌倉からイトコの住む会津柳津へ移住し、新たな制作を始める。

つまり、80年代になって、ようやく斎藤清の木版画モダニズム世界はひとつの「完成」を見ることになる。斎藤清という版画家は、作家主体の表現として始まった「創作版画」から出て、初めてモダニズムという「近代版画」を確立し、続く「現代版画」の先駆けとなったのである。

「季刊現代版画参照」

小樽での斎藤清氏、棟方志功氏と金子誠治氏

金子誠治氏が後年、斎藤清氏ならびに棟方志功氏らとの係わりについて回想したこと

私が木版画を始めてから早くも半世紀になる。

振り返ってみると昭和2年、私が旧制小樽市立中学校に図画講師としてこられた成田玉泉先生から、平塚運一、恩地孝四郎、棟方志功の版画を見せていただき、ことに棟方作品のステンドグラスのような墨線に、いろいろな原色が入った強烈な多重刷りに、魅せられた時からすっかり版画の虜になってしまいました。

図画の授業は他校から講師として、竹田信夫、成田玉泉両先生が週に1度こられるだけでした。

美術雑誌の現代版画の話の時に、成田先生が版画家の棟方志功と、同郷人で親しくしていたことから、少年時代のエピソードなどを面白く熱を込めて話してくださった。そしていつか小樽に来られることがあったら紹介するよ、と言っておられたのですが、なんとその夏、棟方先生がひょっこり小樽に現れたのだ。

早速、棟方先生と成田先生、その成田先生に早くから師事していた河野薫さん、ほか数人と一緒に「よい版画を創るためには、基礎のデッサン、絵の勉強が何より大事だ」ということで、小樽公園の噴水のある池のあたりへスケッチに出かけた。

小樽で創立された、「光土社」という画会の発表展が昭和7年にあり、河野薫、斎藤清と私の作品が並んだ。二人ともうまいなーと、関心もし、ライバル意識も掻き立てられたが、数日後、突然、当時小樽で看板店を経営していた、斎藤清氏は版画家を志して上京。数年後には成田先生も緑小学校の図画専科教員を私に譲って上京してしまった。

棟方先生にはその後も長い間、目をかけていただいた。

斎藤清氏、成田先生に続いて私も版画をもっと勉強しようと、日本版画協会、国展などに入選したのをきっかけに、緑小学校を退職し、昭和15年、勇敢上京した。

3年間の給料をほとんど貯金していてくれた母親が「絵を売ることなど考えずに、2年間みっちり勉強してくるように」と励ましてくれた。

東京では最低費用で生活しながら、夜は有楽町のクロッキー研究所へ、昼は下宿で制作、その合間をぬって、博物館、銀座の画廊などを回った。

齊藤清氏や若手の作家たちの団体である「造型版画協会」に出品して新作家賞をもらい、会員となった昭和13年に、数々の中央展出品作を含め30数点の版画作品を持って一時帰樽、小樽・今井百貨店で初めての個展を開いた。故郷に錦を飾ったわけである。

「金子誠治版画集参照」

平成29年の活動計画として以下のことを計画しました。

  1. 長谷川雄一の年譜を作成する
  2. 全作品のリストの作成する
  3. ポートフォリオを作成する
  4. 秋口に新作と当館が新たに購入した作品の展覧会を開催する
    しかし、実際に実現できたのはCの昨年10月12日、池上本門寺のお祭りに合わせた新作展の開催だけでした。
    1. の年表については概ねできたので近日中にホームぺージにアップいたします
    2. 作品リストについてはどうしても作品の写真がうまく撮れないのでこれからです
    3. ポートフォリオについては大きく5つの時代に分けて執筆中です

開館時のホームページの「長谷川さんと私」で長谷川さんが版画家になる過程で大きな影響を受けた人は多分、斎藤清先生、ザ・トールマン・コレクション東京のトールマンさん、そして彼のお母さんフクさんの3人だと思うと書きました。3人のうちお母さんは長谷川さんに手厚く見守られて数年前に亡くなれました。小生も母子家庭で育ちましたので母親に対する心情はよくわかります。

長谷川さんに大きな影響を与えた、長谷川さんが本当にお世話になったお二人について最近小生もいろいろ係わりというか縁を感じたことがあったのでご紹介したい。

最初は、長谷川さんの師である斎藤清先生であります。先生は会津坂下町で誕生し、幼少期は北海道の夕張、その後は小樽で看板屋を営んでおりました。30歳にして上京し東京、鎌倉を経て60歳に故郷会津柳津に帰京しました。

実は小生も小学校時代を会津若松で過ごし、会津坂下も隣の会津本郷、特に会津柳津には父の会社・東北電力の立派な保養所がありましたので、東京から従兄弟たちが会津に遊びに来た時は必ず泊まりに行っていました。
また、小生が日通に入社し、1996年ごろ北海道夕張市の隣、岩見沢支店の支店長として勤務していた時代、夕張は岩見沢の管轄だったのでよく行っていました。
たまたま、夕張市の教育委員会主催で20年ぶりに「斎藤清展」が開催され、岩見沢で知り合ったいい仲間と一緒に見に行きました。絵も勿論良かったのですが、夕張名物老舗のうどん屋でカレーうどん食べた時、その店主の話で子供だった斎藤清さんもよく食べに来ていたと聞き感慨深いものがありました。
小生は斎藤清さんとは本当に同じところに住んできたように思います
ここ5年小生は毎年、8月の上旬、お盆の前10日間ぐらい北海道に和子といつも手配いただく大久保さんと日通の先輩の加藤さんとゴルフを中心に行くことにしています。
今回、前述の岩見沢時代のいい仲間の石川さんに勧められてゴルフの合間に、余市の「オチガビワイナリー」に行きました。
実はこのワイナリーの経営者落さんは、日本で最初にドイツのワイン醸造所に国から派遣されて醸造技術を習得し、帰国後、新潟で一度ワイナリーを成功させ、今回、余市で新たにワイナリ−を始められました。このワインが本当においしくてすっかり大好きになりました。

ワイナリーオーナーの落さん、小樽在住の及川さんとお友達、大久保さんと我々

たまたま、ここでお目に掛った小樽在住の及川さんから面白い情報を得ました。展覧会はもう終わってしまったのですが、非常に興味深い斎藤清さんの小樽時代のことが分かる展覧会だったようです。 その展覧会のパンフレットによると
小樽美術館で小樽ゆかりの版画家5人が集う!美術館特別展「木版の夢」
市立小樽美術館(色内)特別展「木版の夢―小樽に版画の種を蒔く」が4月23日から7月3日まで、同館2階企画室展示室で開催されました。
昭和の初期、版画界の重鎮として知られる棟方志功(1903-1975)・成田玉泉(1902−1980)斎藤清(1907−1997)
が小樽で出会い、教え子の河野薫(1916−1965)金子誠治(1914−1994)らに版画の息吹を伝えた。小樽ゆかりの版画家5人の新収蔵品6点を含む77点が会場に展示され、来訪者を版画の世界へ誘った。
5人の出会いを結び付けた成田氏は、青森県弘前市に生まれ、父の転勤で小樽へ。市内の小中学校で美術講師を務め多くの後進を育てた。河野氏も成田氏に指導を受けた一人。
友人であった棟方氏を小樽に招き、小樽で看板屋を営み成田氏に師事していた斎藤氏とともに、棟方氏を出迎えた。成田氏の勤務先の中学校(金子氏が通う)で講演会を開き、その後、小樽公園で子供たちと写生に出かけている。
金子氏は棟方氏に出会い衝撃を受け、棟方の作品を道展に出品するなど、創作版画の魅力を北海道に伝える橋渡し役を務めた。河野氏も成田氏から紹介され、棟方氏から激励の書簡を受け取るも、斎藤氏に師事する。
小樽で出会い、それぞれが影響を受け、切磋琢磨しながら版画家の道を志すきっかけとなるなど、5人の版画家の足跡を辿る特別展となる。
成田氏の作品は、個人蔵2点と同館新収蔵品6点を初公開した。オモタイ海岸や大通り公園。天売島の夏や丹頂、観音像など素朴な多色刷木版。
棟方氏も青森県に生まれ、版画だけでなく、小樽出身の民俗学陶芸研究会小寺平吉夫人・貞子氏に贈った書画や版画の思いを集大成した言葉の「驚きも喜びの」の書、41歳の若さで亡くなった母を偲んで作った名作「悲母記」の豆本、川野氏に宛てた励ましに手紙も展示。 斎藤清な作品は、富士山をモチーフにした「霊峰夕映え」や猫や寺院、故郷会津をテーマにしたものであるが、この展覧会に夕張教育委員会から出展された作品は何と、これは20年前夕張で初めて見た斎藤清の版画ばかりであり、何か感慨深いものがありました。

また、情報提供ですが、
2017年は 斎藤清没後20年、斎藤清美術館開館20周年に当たります。 この節目の年に作品集全3巻『斎藤清Collection』発刊と特別企画展開催を計画しています。



次ぎはもう一人の長谷川さんが今も本当にお世話 になっている「ザ・トールマン・コレクション」を経営するノーマン・トールマンさんについてであります。
トーマンさんにについてはこのホームページにも平成26年芝大門のザ・トールマン・コレクションで開催した「長谷川さんの特別な展覧会」で登場頂いております。

ずいぶん昔の「版画芸術」にトールマンさんについて掲載されていたのでその記事を引用して考えてみたいと思います。

現代版画はどこへ行く?今、版画の日本はどこにあるのか
松山龍雄著

「現代版画」とは1970年代以降、「現代美術」と寄り添うように発展してきた現代版画を意味している。そして言うまでもなく、この「現代版画」の上に暗示されているのが「日本の」と限定詞に注目する時、そこに少し異なった局面が見えてくる。
そこで今回は、「日本の」現代版画の特質とはどのようなものか、ということを検証してみようと思う。あらかじめ断っておきたいのはそれは日本の版画や美術、文化を賞揚しようとするナショナリズムや「日本主義」の立場によってではないということである。
いうまでもなく、過去の苦い歴史の教訓から、日本の精神文化や伝統を標榜する「日本主義」「ナショナリズム(国粋主義)」は政治体制としての帝国主義や軍国主義に結び付けられ、特に「大東亜共栄圏」として日本の視野にあった東南アジアからは、今でも厳しい警戒の目で見られている。
しかし、そうした負い目を持つ日本人を尻目に、戦後に日本の美術、文化を認め、高く評価したのは、アメリカを中心とした外国人であった。いや、明治維新以後、欧米の評価によって、初めて日本が自国の文化の価値を認識するという構図はずっと続いていたわけである。 それは簸画においても、まったく同じ状況であり、さらに言えば、「浮世絵版画」以来日本美術の中で版画ほど海外での評価のよってその価値を高めたものはない、ということは周知ノーフォーク事実である。それに続く「創作版画」でも「新版画」でも同様であった。
その外国人による日本版画の評価の先駆けとなったのは、オリブアー・スタットラーとジェイムズ・ミッチェナーの二人である。O・スタットラーはGHQの一員として来日し、『日本の宿』のどの著作で日本の文化の紹介に努めた。
そして『ModernJapanesePrints AnArt Reborn』(1959)という創作版画の著作を出版している。
一方、J・ミッチェナーは後に「南太平洋」の原作などのベストセラー作家として有名になるが『TheModenJapanesePrintoAnAppreciation』(1968)を著し、日本の創作版画を紹介している。この2冊が海外への日本版画紹介のバイブルであった。
彼らは恩地幸四郎、平塚運一、棟方志功、斎藤 清、関野準一郎、o地梅太郎らの版画家を度々訪れ、深い親交を結んでいた。しかし今や,それらの版画家たちも、スタットラーも亡くなり、戦後の「創作版画」の時代はもはや昔話になろうとしている。
しかし、その跡を継ぐアメリカ人がいた。現在、東京・芝大門でギャラリー「ザ・トールマン・コレクション」を経営するノーマン・トールマン氏である。
なぜ一個人のアメリカ人がそんなに熱心に「日本の版画」を海外に紹介しようとするのか、その肝心な点をずっと聞きそびれていた。
版画の「日本」について、あるいは日本の版画についてあるいは日本の版画の何が外国人を引き付けるのか、彼こそが最も強く「体感」している人物ではなかったのか、ということに思いいたったのである。
トールマン氏はアメリカの名門イエール大学などで東洋学を修め、1955年に日本に文化担当外交官として赴任した。東京・札幌・京都のアメリカ文化センターに勤めているが(札幌・京都では館長兼領事)、その仕事というのは、簡単に言えば、アメリカの文化を日本に広めることである。例えば札幌時代に、アポロ11号が持ち帰った「月の石」の展示をプロデュースして10万人の入場者を記録したこともあるという。
トールマン氏と版画の最初の出会いは1967年にニューヨークで見た斎藤清の【ハニワ1950】であった。そのハニワの顔の根源的なアピール力に惹かれて、何とか手に入れたいと思った。残念ながら非売品であった。そして日本に戻り、斎藤 清作品取り扱い画廊で、その版画を探したが見つからなかった。がっかりして帰ろうと思ったその時、なんと作家本人が現れた。そこから作家との付き合いが始まり、作家がアトリエに保存していた【ハニワ】も版画収集の第1番目としてコレクションすることができたという。
1950〜60年にかけて、最も外国人に売れた作家が斎藤 清であることは間違いないが、他の作家からやっかみも含めて、「日本を売りものにしたスーベニール作家」というような言われ方をされたようです。
よく知られているように斎藤 清は、戦後最も早く1951年の第1回サンパウロビエンナーレで駒井哲郎とともに受賞しているが、その後は棟方志功のような華々しい受賞歴はない。授賞によって名を上げたのではなく作品が売れるという「人気」によって名をなした作家である。

現代版画の潮流にいては次回に譲るとして、ここではトールマンさんはそういう役割をされている方で、長谷川さんがもっとも世話になっている方だと思います。
実は偶然と思いますが、今回引用した「版画芸術」の記事、芝大門「ザ・トールマン・コレクション」東京での写真の背景にある版画は特別の意味があるかどうかは分かりませんが、名だたる作家がいる中で「長谷川」さんの作品であります。

「版画芸術」に記載されているように、トールマンさんが苦労して購入し、その後、有数のコレクターとなるきっかけとなったのは、「はにわシリーズ」(ハニワClayimage)でありました。また、偶然ですが、わが版画館で最初に購入した斎藤清の作品は、「RECOLLECTION1971」と「HANIWA (AI)1962」の2作品であります。
たまたま、トールマンさんが最初に購入した版画も、わが版画館が最初に購入した齋藤作品も「はにわシリーズ」であったのは何か考え深いものを感じます。
この齋藤清の版画は小生の寝室に懸けてあり、毎朝、目が覚めると「おはよう」と挨拶をしています。

以上

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